三浦裕史のホームページ          新版『近代日本軍制概説』を刊行予定。

■近代日本の政治法制について関心があります。■2021年06月06日記事参照。

貞孝(56世)、脩孝(76世)の無念や想うべし―『北島國造家沿革要録』の読後感。

■2016年8月30日記事参照■
 
1.いかなる配慮や遠慮、裏事情があるかは知らないが、妙に腰の引けた表現が見受けられる。
 
「世間一般では、とかく両家の本末を論じ、その黒白をつけたがる向きもあるようですが、このことは厳に謹まねばならず軽々に論じてはなりません」
 
これを貞孝が読んだらどう思うだろうか。所蔵の文書を写真入りでキチンと掲げ、自家の正統性を冷静に主張すべきであろう。
 
「両家共国造家の格式を重んじて共々繁栄しなくてはなりません」
 
貞孝が妥協したのは両家分立、大社分掌までであり、現在のような状況ではなかろう。仮に「共々繁栄」と言うなら、それは両家分掌制の復活または宮司交代制の導入である。
 
2.歴代の名前の動向。千家歴代は初代孝宗より孝○としたい所だが、そうすると北島歴代の下の文字「孝」を頭に戴く羽目になる。後世の「尊」は「孝」の替字かも知れない。また全くの推量だが、千家歴代は有力者(地頭、守護、大名など)の偏諱を受ける傾向にあったのではないか。
 
3.やはり気になるのは、
・清孝の後継指名の有効性
・康永三年、(北島)貞孝が(千家)孝宗と妥協した経緯
・明治六年、北島脩孝が宮司職から排除された経緯
である。
特に第三点は近代史の領域であり、わたしも良い機会を得て追究してみたい(神道史や郷土史の研究者がやっても良いと思うが、必ずや遠慮が入って碌なものは出来ない)。尚、明治政府の命令は、神学的に解すれば(!)、天皇の命令であるから、明治天皇が北島家を排除したと考えることもできる。
 
千家尊福『出雲大神』は自家を「本家」、北島家を「分家」と断定している。また同書は、清孝が弟孝宗に譲ったのにも拘わらず、孝宗貞孝兄弟で争論になったとする。即ち、清孝の国造職には何ら制限無きものとし、また貞孝の主張に触れない。
 
○地元の人にそれとなくボンヤリ訊いてみた。「どっちですか」。
・店員さん(出雲教で挙式) 「わたしは北島さんのほうが好きです」
神職某氏(県内他市)「(質問には答えず)北島さんのほうが古いしきたりを守っています」
郷土史家風の御隠居(東北弁みたいな感じで) 「北島さんのほうかな」
 
○全孝、脩孝、殿若丸(齊孝?)お三方の顔写真は宮内庁三の丸尚蔵館『人物写真帖』で。
 
●歴史に関心を有する者として、大きく栄えているものの陰にある史実、そして真実を見極めたく思い、少しく考えてみた。