編者村田正志氏は研究者だからこそ、ハッキリとは言えなかった。資料を調査する便宜上、どちら側も敵に回せないのである。しかし―
1.現状では、千家家の完勝である。明治に入って、北島家が大社宮司職から排除された経緯を究明することが必要である。
2.ネット上には既成事実を追認するコメントが溢れている。当方は神社業界や地元等に何の縁故も無いので、客観的に述べ得る。
3.『出雲国造家文書』は北島家所蔵の文書を載せたものであるから、当然、北島家に有利である。千家家に反証的文書があるなら出せばよいし、或いは無いのかも知れない。現状で完勝してるのだから、「寝た子を起こす」必要はない。
5.そもそも何を以て「正統」とするかという問題は等閑に付されている。正統か否かの決め手は、家父長(現・元の国造)の意思か現職国造(家父長でない場合あり)の意思か。宗教的な資格の有無(必要な儀式を経たか、禁忌を避けているか…)も問題となろう。
6.『出雲国造家文書』によると、
●国造出雲孝時に清孝、孝宗、貞孝の三子があった。同母兄弟である。
●孝時は、清孝に国造職を譲ったが、その後、清孝から国造職を取り返し(悔返か)、これを貞孝に譲ることにした。清孝が父孝時に逆らったためである。
●しかし、孝時は母覚日尼(三子の祖母)の希望を容れて、清孝を一代限りの国造と認め、その次は貞孝が継ぐこととした。
●しかし、清孝は父孝時が三弟貞孝を後継としたことを恨み、父の死後、敢えて次弟孝宗を後継とした。
●清孝が八年間在職して死んだ後、貞孝が父孝時の遺言通り国造となったが、一方、孝宗が兄清孝から譲られたとして国造を称した。
7.以上を整理すると、国造の地位を、貞孝は父孝時から譲られ、孝宗は兄清孝から譲られた。また孝時の国造権限は完全であったが、清孝の国造権限は、後継決定権を欠くという点で、不完全であった。