#神社仏閣名所旧跡
見下ろすと、いっとき不思議な気持ちが湧く。
1.国庁跡に近い田園の中、参道がまっすぐ山麓へ伸びる。 2.真名井は同じ山の離れた麓にあり、位置関係から考えて、当社は式内真名井神社がそのまま推移したものではなかろう。 3.境内はやや急な石段を上がる。木々が深い。本殿背後の斜面も緑豊か。やはり…
1.主祭神不明、南殿には秘説四座。明治初年、正殿の秘説一座の神名を示すよう藩庁から命じられ、「佐太御子大神」にしたと云う。 2.三連本殿は貴重。更に、南殿の向左階段は珍しい。 3.摂社田中神社は社殿配置が独特。 4.佐陀神能と関連神事は、わが国の…
天神は元禄の合祀で、旧称は穴澤神社。 論社は存在するが、平地と多摩川を望む丘の中腹にあり、式内社の鎮座地として相応しい気がする。 しかし、直ぐそばを京王相模原線の高架が通る。それを潜って石段を上がり詣でる。
1.境内は狭いが、周囲に高い建物がないので、清々する。 2.社叢は浅いが、本殿背後の緑がやや救っている。古来、神陵と伝える。 3.神話は悲壮。 4.平安期設置の荘園名「橘木荘」は社名から取ったものか。 5.本納と言えば、徂徠勉学の地(と言っても、父…
1.平安時代に現在地に遷座。隣は小学校。「廊下を走るな」と言いたい。 2.戦前期建立の拝殿は単純な構造だが、なぜか重厚感がある。鳥居は渋い色にした方が良い。 3.本殿は江戸期の流造で五間が珍しい。もともと二間二間の連結社殿だったが相の間を神殿に…
1.教習所近くのバス停から歩く。公園で親子が遊ぶ。 2.いきなり鳥居に出くわし、松などが並ぶ参道に入る。両側に住宅が迫る。直進すると、重厚感のある神門。両袖には随身が納まる。 3.社殿は商人が寄進したものらしく立派。周りには大木もある。 4.過去…
1.床下柱の存在や由緒・地域性から大社造と結びつけられがちだが、無理にそうする必要もあるまい。なぜなら、外見も内部も大社造の特徴を有していないからだ。 2.決定的なのは、神殿に正面を設けているということ(神座も正面向き)、更には神殿を並列連結…
1.鶴山台団地のバス停から歩くのが楽だが、旧熊野街道沿いの一の鳥居からの方が信太丘陵を実感できる。 2.信太明神と称される。本殿は慶長九年の造営で、近年、彩色がやり直された。重文。また拝殿が新しくなった。 3.本殿の内陣中央に宮殿が置かれる。願…
1.具体的に、どう基づいているのか、ヨクわからない。但し、 ●社殿配置が墓所も含め東西一直線であること、 ●本殿内部中央に宮殿厨子を設けること、 ●社殿から離れた位置に墓所(廟所)があること ●墓所において、墓の後ろに神号碑を置くこと(2参照) は…
■2016年11月13日記事「貞孝(56世)、脩孝(76世)の無念や想うべし」参照■ 例えば、勅命(密勅を含む)によるとか。
■2016年8月30日記事参照■ 1.いかなる配慮や遠慮、裏事情があるかは知らないが、妙に腰の引けた表現が見受けられる。 「世間一般では、とかく両家の本末を論じ、その黒白をつけたがる向きもあるようですが、このことは厳に謹まねばならず軽々に論じてはなり…
編者村田正志氏は研究者だからこそ、ハッキリとは言えなかった。資料を調査する便宜上、どちら側も敵に回せないのである。しかし― 1.現状では、千家家の完勝である。明治に入って、北島家が大社宮司職から排除された経緯を究明することが必要である。 2.…
他に田畑皆無の菅浦側は必死だったのだろう。 昔は船で今は車で、菅浦から現地へ出向き、耕していると聞く。
栃木県立博物館、2010年刊行の図録。史料豊富で大変充実した内容。 黒羽は現在、町村合併で栃木県大田原市に属する。 黒羽藩では、家臣の力が相対的に強く、殿様の強制隠居、持参金目当ての養子取り、一部家臣の藩退去など、話題は尽きない。 増業さんも千両…
豊前の式内社は、ここと宇佐神宮だけ。 起源は古く、延喜式より遙か前、風土記に記述がある。最澄も渡唐の前に詣でたという。 悲願は一ノ岳復活だろう。削った分を積み上げるということ。中国の説話に愚公移山というのがあるが、気長にやれば、いつかは達成…
日蓮の書いた手紙は、本物や写本で、数多くが伝えられている。 ということは、日蓮には弟子や信者から多くの手紙が来ていたはずだ。 しかし、そうした日蓮宛の手紙に関し見聞きしたことが全くない。
「大浦川の姿はもはや見ることはできない。両岸の町並みから消えてしまった本質的なものは、都市の秩序ではないだろうか。」 (下間久美子、2005)
のりちゃん(のりこさん。博多出身)という仲居さんがいて、 場所柄、朝食だけついて、 かなり年配だった女将さんは一寸粋筋の感じがして、