講演会などで実物(ご本人)を見て、愕然とするのは私だけだろうか。
高照神社 は吉川神道に基づくというが、
1.具体的に、どう基づいているのか、ヨクわからない。但し、
●社殿配置が墓所も含め東西一直線であること、
●本殿内部中央に宮殿厨子を設けること、
●社殿から離れた位置に墓所(廟所)があること
●墓所において、墓の後ろに神号碑を置くこと(2参照)
は注目してよい。
2.葬送図絵から察するに、八角石柱の位置が不変なら、現在、拝墓とされているものが、祭神津軽信政の埋葬墓である。現在、本墓とされているのは、信政の神号碑である。神号碑≠埋葬墓。尚、墓所外南方の森岡氏墓石には「輔衛霊社」「津軽家執事森岡民部藤原元隆墓」とあり、他に石柱がないから、こちらは神号碑=埋葬墓と言えるのではないか。
3.墓は四角形の、神号碑は八角形の石柱。
4.神号碑の銘は本来のものではない。信政が吉川家から与えられた神号は「高岡霊社」ではなく「高照霊社」だった。神号碑の銘文は「岡」の字が後から嵌め込まれたようになっている。神号の変更は神社にとって重大事件と思われるが、その経緯はどうもハッキリしない。明治時代に入り、「天照大神」を憚っての措置というが、詳しいことは公表されていないようだ。
藤田嗣治氏歿後五十年。
藤田嗣雄先生の弟。
出雲大社における両家分掌制の復活または宮司交代制の導入には、近代法の踰越を要する。
■2016年11月13日記事「貞孝(56世)、脩孝(76世)の無念や想うべし」参照■
例えば、勅命(密勅を含む)によるとか。
「太郎山(2367㍍)は誰いうとなく孤独な山だといわれている。」
(荒川浩和, 1970)
拷問を受け棄教したことを「人間的な弱さ」として批判する考え方。
批判されるべきは、拷問した側であって、拷問された側ではないだろう。
拷問自体の苦痛、そして生き延びた安堵と生き残った苦悩を、当事者の身になって考えることが、少しはあっても良いのではないか。
藤田嗣雄先生歿後五十年
『軍隊と自由』の文庫化を。
『独逸軍制概要』の刊行を。